
知覧飛行場という名を今まで知らなかったが、言ってみると圧倒されたてしまった。
今の知覧には飛行場はないが、太平洋戦争の末期、若い飛行機乗りが全国から集められ、特攻隊として沖縄に向けて飛び立って行った飛行場があった。
そして、現在はここに知覧特攻平和会館がある。
1000人を越える多くの若い飛行兵の命が失われた特攻隊について、隊員の家族に宛てた手紙、最後に書いたメッセージ、多くの手帳や勲章やその他に遺品が展示されている。
その一つ一つがとてもリアルな実態感があり、見ている者を圧倒する。
特攻が開始されたのは米軍の沖縄攻撃が激しくなった時期で、この知覧から沖縄戦に向けて米海軍船を攻撃するための特攻作戦だった。
簡単にいえば「人間ミサイル」で、この特攻作戦がイスラム過激派の自爆テロにつながった「悪名高い自殺攻撃」だ。
当時の日本軍が、なぜ、こんな事を考えたのかとか、命令を受けた若い飛行兵たちが何を考えていたのかと、いろいろ考えさせられる場所だ。
滅私奉公が好きな日本人のメンタリティからは、国家や天皇、国民や自分の家族を守るために自ら犠牲になるというのは美学だったのだろう。
少なくとも当時の若者には共通の美学だったような気がする。
だから、喜んで(?)特攻を志願した。
でも、実際はそれだけではないと思う。
そこに残る手紙や手記を読むと、両親や家族に宛てた感謝の気持ち、国家や天皇のために自分の命を犠牲にしてまで戦う決意などで、誰もが同じことを繰り返し書いている事だ。
誰一人として「死にたくない」や「助けてほしい」と書いた者はいない。
幼い子供を郷里に残してきた飛行兵でさえ、「母の言う事をよく聞きなさい」「会えなくてごめん」というメッセージを書いているが、なぜ自分が死ななければならないのかの説明や死ぬ悔しさを書いたものはない。
これは明らかに国家による洗脳で、人間ミサイルである事を日本人の美学にすり替えてしまっている。
このすり替えが一番の問題なのだろう。
すり替えをした太平洋戦争の首謀者は戦争では死んでいない。
最後には極東軍事裁判で有罪となり死刑になったが、若い飛行兵を犠牲にして自分たちだけ太平洋戦争を生きのびた。
こうしたすり替えはいろんな所で使われるテクニックなので、現代を生きる我々も気をつけなけらばならないだろう。
なお、知覧には「武家屋敷」も保存されていて、薩摩の武士の質素な堅実な生活ぶりが偲ばれる家と庭が見られる。
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